塗師の家

こちらのページでご紹介しております「塗師の家(ぬしのいえ)」は、江戸後期から明治にかけて建築された町家を、1990年に弊社が復元したものです。長年多くの皆様に高く評価していただいておりましたが、2024年1月1日の能登半島地震の際に発生した大規模火災により全て焼失しました。せめて記録だけでも残してほしい、とのお声を数多くいただきましたので、こちらのページでご紹介しております。

美しい漆の町家 塗師文化の結晶

塗師の家(ぬしのいえ)は、輪島の塗師文化が最も華やかだった江戸後期から明治終期にかけて建築されたものです。1987年(昭和62年)、廃屋となっていたこの家に出会い、塗師文化の再構築を目指して1990年(平成2年)に大改修を行いました。
塗師の家は、輪島塗を育んだ塗師文化を証明する唯一の建物でした。かつての漆の艶を取り戻したこの家は、なぜ輪島に輪島塗があるのか、その理由を体現していました。

輪島塗と塗師文化 〜塗師の家の成り立ち

輪島は古くから開けた日本の七つの湊でした。長い歴史の中で輪島塗は、「潮の道」を販路として製品を自ら全国のエンドユーザーへ売りさばく自作自売の販売形態を藩政時代に生み出しました。

塗師たちが旅先で見聞したのは、各地の優れた文化でした。つまり、塗師たちは輪島塗という文化産物を発信しながら、同時に全国の文化を着信していたのです。この往来の絶えざる刺激に育まれたのが塗師文化であり、住人である当時有数の文化レベルを持った数寄者の塗師と、それに感化されたイナセな職人たちが作り出したのが、この塗師の家といえるでしょう。

旅先での塗師屋の販売は豪農や豪商の奥座敷に通されての商いでした。なぜ墨客並みの接遇を受けたのでしょうか。一つには高質の文化情報を持つ旅人として、そして彼自身も高い教養を有していたからこそ顧客の信頼と敬意を得たのに違いありません。

その塗師たちは、旅行きの2~3ヶ月を除けば大半は輪島で過ごしました。彼らは旅の準備や始末が終わると大した仕事は無く、商品の工夫や「遊び」に多くの時間を費やしました。遊びの恰好の場がこの塗師の家でした。それはまさに「遊び」と呼ぶ分類で、文化修養を積むための修行の決心は少なく、それぞれ他人のできることは当然でき、人のできないところまで芸や技を深めたいと競い合いました。それは職人たちにも及び、町中がその雰囲気に包まれました。江戸末期より明治期において茶人、俳人、芸人である親方連中は増えていき、ある俳人は200人の門弟を擁したといわれています。

ただ塗師の財力は限りがあり、全国で知り得た贅の何十分の一かが精々でした。それが建物や調度品に現れ、小さく、少ないながらも小粋な工夫へと走らせることとなりました。シンプルな空間、工芸意匠の真骨頂であるストーリー性のある文学意匠を随所に盛り込んだ建築、また町衆が育て上げた茶の湯の場として数寄屋の雰囲気をも醸し出し、その点でも貴重な文化遺産だったといえます。

*「塗師の家」は2023年に輪島市に寄贈され、将来に向けて漆文化を育んだ輪島市全体の財産として更なる保全・継承と活用が計画されておりました。


塗師の家 フォトギャラリー

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